1887年、ノルマンディー地方セーヌ=マリティム県ブランヴィルの裕福な家庭に生まれる。
父は公証人。マルセルは7人兄弟の3男であった。
マルセルは兄らの影響で少年時代から絵を描き始める。
高校を卒業後、1904年パリに出てピュトー派の兄らと合流。兵役終了後、アカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。
初期には印象派やフォーヴィスム風の作品や、『階段を降りる裸体』(1911年、1912年、1916年制作の3バージョン)のようなキュビスムと未来派の影響を受けた絵画作品もある。
1911年には連続写真を思わせる『汽車の中の悲しげな青年』を制作。
翌1912年には出世作『階段を降りる裸体No.2』、『花嫁』などを描く。
しかし、所属していたキュビスムを研究するグループの保守的な批判(『裸体は階段を降りるものではない』と題名の変更を求められた)に憤慨し、グループ展に出品していた作品を取り下げる。
この1912年に油絵を複数制作後、油絵をほとんど放棄する。
1913年2月-3月、ニューヨークのアーモリー・ショー(アメリカにおけるヨーロッパ現代美術の最初の大規模な展覧会)では仲間からは批判を受けた『階段を降りる裸体No.2』を含む4点が展示された。

それは、ヨーロッパの最新の芸術が輸入されてきたと(若干の誤解を伴って)スキャンダラスな話題を呼び、「屋根瓦工場の爆発」などと新聞で揶揄され、アメリカにおけるデュシャンの名を大きく広め、ニューヨークに移り住む大きな足がかりとなった。
後半生にほとんど絵画作品を手掛けなかったデュシャンが有名であるのは、この『階段を降りる裸体No.2』によるところが大きい。